歴史に刻まれた立川の石碑・句碑・詩碑・歌碑などを紹介します。

 
詩 歌 の 道

詩歌の道は、文化環境整備の一環として根川緑道を中心とした
立川市歴史民俗資料館から根川貝殻板橋までの2.4kmを整備したものです。
立川市にゆかりの深い作家の句碑や歌碑などが建立されています。

− 立川を歩くから −

 高村光太郎(たかむら こうたろう)詩碑

 「葱」
 立川の友達から届いた葱は、
 長さ二尺の白根を横へて
 ぐっすりアトリエに寝込んでゐる。
 三多摩平野をかけめぐる
 風の申し子、冬の精鋭。
 俵を敷いた大胆不敵な葱を見ると
 ちきしやう、
 造形なんて影がうすいぞ。
 友がくれた一束の葱に
 俺が感謝するのはその抽象無視だ。


 この詩は、高村光太郎夫人智惠子さんと親交の
あった佐藤元農場試験場長夫人から贈られた立
川産の葱を謳ったものです。縁ある東京都農場試
験場内に立川市の「詩歌の道」づくりの一環として
建立された。      【平成8年10月7日除幕】

 谷川水車(たにがわすいしゃ) 句碑

 「春を待つ 路傍の石の 一つの吾」

谷川水車(大正3年10月31日生)立川市文化協会
(前身立川市文化連盟)の創立に尽力。立川市民
俳句会代表として45年。「曲水」同人。「詩歌のみち」の提言者。

                   【平成13年除幕】

 やまやのぎく句碑

 「どこよりも小学校のさくらかな」

                   【平成13年除幕】

 鈴木貞次(すずき ていじ) 句碑

 「麦負うて 道いっぱいに 揺(ゆ)り来(きた)る」

 筑水こと 鈴木貞次(明治36年生〜昭和44年没)
は、趣味豊かな人で松田殊水に琵琶を習い 俳句
を 有山薫糸に学びました。
 立川に生まれ立川で育ち 富士見町で立川印刷
会社を経営するかたわら 文化人の仲間で清談会
や五日会をつくり 初代立川市教育委員長をつとめ
地域の市民文化を育てました。
 この句は 今から50年程前 富士見町6丁目団
地周辺が一面の麦畑であった当事のことを 詠ん
だものです。       【平成9年10月18日除幕】

 田中冬二(たなか ふゆじ) 詩碑

 「シクラメンの花と」
 大晦日の夜十時頃
 親しくしていただいてる花屋さんから
 シクラメンの花鉢がとどけられた
 すばらしい花だ
 そのシクラメンと年越をした
 スヰィートハートといっしょのように


 田中冬二(明治27年生〜昭和55年没)は福島県
に生まれ 東京の立教中学校を卒業ののち 銀行員
となり 昭和21年 安田銀行立川支店長(現富士銀行)に就任しました。
 「晩春の日に」で 高村光太郎賞を受賞しました。
 この詩は 市内で花店を経営する 三田鶴吉氏
から贈られたシクラメンの花束に お礼の言葉を詠
んだものです。      【平成9年10月30日除幕】

 和田山蘭(わださんらん) 歌碑

「時雨(しぐれ)かと戸をあけてみればしぐれならず
             星空さえて  多摩川のおと」


 和田山蘭(明治15年生〜昭和32年没)は 青森県
に生まれ 青森師範学校卒業後 小学校教員になりました。
 明治43年 若山牧水の「創作」に参加 生涯5万首
を詠みました。青森県歌壇の育ての親でもあります。
 また、書道に優れ 昭和9年 旧制府立二中書道
教員着任 のちに立川南口に 雨晴書院書道塾を開きました。
 この歌は 自然の趣深く 冬の季感を詠んだものです。           【平成10年10月30日除幕】

 若山喜志子(わかやま きしこ) 歌碑

 「ひとりゐは あさこそよけれ わか竹の
         露ふりこぼす かぜにふかれて」

  この歌は 若山喜志子(明治21年5月28日〜昭
 和43年8月19日)の歌集「芽ぶき柳」の一首です。
  歌の大意は「(夫の牧水に先立たれ)一人住ま
 いは寂しい。でも その生活のなかにも清々しい
 一時がある。朝 家の前に立ち 若竹が風に吹
 かれてそよぐ様を見ると 秋が来たんだ という
 新たな思いを覚える。」という意味です。
              【平成7年4月14日除幕】

 中野藤吾(なかの とうご) 歌碑

  「川原にかはらなでしこ咲くもよし空をうつして
 水澄むもよし」

  多摩川原に、秋の野草ナデシコが咲き、川水もま
 すます澄んで、いつも美しい多摩川よ、と多摩川
 を愛する歌である。昭和26年作。
  この頃から昭和40年代のはじめにかけて、たく
 さんのすぐれた短歌をのこされた。
  平成2年に亡くなられるまで、明星大学教授、一
 生教職にあり、立川の郷土誌の語りべでもあった。
  「あの日、あの頃、あの辺り」「街の片隅から」の
 著書もよく知られている。 
               【平成12年7月7日除幕】

 中村草田男(なかむら くさたお) 句碑

  「冬の水 一枝の影も 欺かず」

 この句は 中村草田男(明治34年7月24日〜昭和58
年8月5日)が 昭和8年12月3日ホトトギス武蔵野
探勝会の吟行会が普済寺で催された時に 根川を
詠んだものです。
 句の大意は「小枝の影が(根川)水に映っている。
水がとても澄んでいるので 枝の細かい所まで鮮
明にわかる。」という意味です。
                  【平成3年9月7日除幕】

 水原秋桜子(みずはら しゅうおうし) 句碑

 「初日さす 松はむさし野に のこる松

  水原秋桜子(明治25年10月9日〜昭和56年
 7月17日没)俳誌「馬酔木(あせび)」を主宰。
  この句は、第八句集の「蘆刈(あしかり)」の中
 のお気に入りの一句で昭和14年の作です。
  戦前の立川には、まだ赤松や雑木林があり、武
 蔵野の風景がありました。こんな絵画美を詠ん
 だ俳句をたくさん残され、すぐれた俳人を門下に
 育てられました。   【平成13年9月8日除幕】

 若山旅人(わかやま たびと) 歌碑

 「霧にこもれる 多摩川 いつか雨となり
            芽ぶく 楊(やなぎ) も ぬれはじめたり」


 これは 若山牧水の長男 若山旅人(大正2年5月
8日生)が多摩川を詠んだ歌です。旅人は 昭和22年
9月立川市富士見町2丁目に移り住み その後 父母
の遺志を継いで「創作」を主宰し 作歌活動にいそ
しみました
 歌の大意は「いつしか雨となった。銀色のまだ早春の楊(いわゆるネコヤナギのことで 一般のしだれ柳
ではない)の芽も濡れはじめてきた。」という意味です。              【平成7年4月14日除幕】

 若山牧水(わかやま ぼくすい) 歌碑

 「多摩川の あさき流れに石なげて 
           あそべば濡るる わが袂かな」

  若山牧水(明治18年8月24日〜昭和3年9月17
 日没)「創作」主宰。明治44年9月刊歌集「路上」
 にこの歌を発表。同時作に「多摩川の砂にたん
 ぽぽ咲くころはわれにおもふひとのあれかし」が
 あります。
  牧水は旅の歌人、酒の歌人として友人石川啄
 木の「一握の砂」と共に明治末年の歌壇の主流
 となっていました。 【平成13年9月8日立川市】

  池田澄子(いけだ すみこ) 歌碑

 「茜雲(あかねぐも) あえかに残り 亡母(はは)の     背の 温(ぬく)みなつかし 武蔵野暮るる」

  池田澄子(大正16年生〜平成8年没)は 千代
 田区に育ち戦後結婚して立川に移り住みました。
  夫の突然の失明のため 会社の経理を担当し
 経営を助けるかたわら短歌を学び平成2年に「透
 き とほる窓」を出版しました。
  この歌は 川崎の会社から夫を車に乗せて帰
 宅中渋滞の日野橋を渡りはっと西空を見ると 
 今にも消えかかる夕焼けが美しく 幼かった頃を
 思い出して詠んだものです。 
              【平成9年10月18日除幕】

 八木下禎治(やぎした よしはる) 歌碑

  「日のいろの 寒き川原に ひらめける
    芒(すすき)のそよぎ 声のごときもの」


 八木下禎治(明治37年6月12日〜昭和62年6月5日
)は 大正4年立川に移り住み その後立川連合短
歌会を創立して歌誌「たちかわ」を発行するなど60余年短歌の歩みました。
 この歌は、冬の多摩川の川原の情景を詠んだも
ので大意は「スズキが寒風でさらさらと音をたてている。まるで声を上げているようだ」という意味です。

               【平成7年4月14日除幕】

 

柴崎町の石碑

 

 
   

 

富士見町の石碑

 

 

 

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