歴史に刻まれた立川の石碑・句碑・詩碑・歌碑などを紹介します。

詩歌の道 《根川緑道》

詩歌の道は、文化環境整備の一環として根川緑道を中心とした立川市歴史民俗資料館から根川貝殻板橋までの2.4kmを整備したものです。立川市にゆかりの深い作家の句碑や歌碑などが建立されています。- 立川を歩くから -

立川市公式ホームページより

「詩歌の道」建設について -民間の寄付により設置ー
 「詩歌の道」は、立川市文化協会が中心となり、碑の建設費は1基70万円を目途とし、全額を篤志家の寄付により集められた。平成6年度から毎年一基を目標とし、寄付金が70万円に達するごとに建設がすすめられた。一口1万円で5口以上の寄付者の氏名は碑の裏面5%以内に刻まれている。碑は、実現する都度、市に寄贈され、市が管理することとなった。第1号は平成3年9月の中村草田男の句碑だが、平成6年からは民間の寄贈により平成13年まで7年間かけてあと12基が整備されたものである。(参考:谷川水車著「立川市詩歌のみち」)

1. 高村光太郎(たかむら こうたろう)詩碑

高村光太郎の詩碑

「葱」
立川の友達から届いた葱は、
長さ二尺の白根を横へて
ぐっすりアトリエに寝込んでゐる。
三多摩平野をかけめぐる
風の申し子、冬の精鋭。
俵を敷いた大胆不敵な葱を見ると
ちきしやう、
造形なんて影がうすいぞ。
友がくれた一束の葱に
俺が感謝するのはその抽象無視だ。

この詩は、高村光太郎夫人智惠子さんと親交のあった佐藤元農場試験場長夫人から贈られた立川産の葱を謳ったものです。縁ある東京都農場試験場内に立川市の「詩歌の道」づくりの一環として建立された。【平成8年10月7日除幕】

高村 光太郎:1883年(明治16年)3月13日 – 1956年(昭和31年)4月2日)は、日本の詩人・歌人・彫刻家・画家。東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)出身。本名は光太郎と書いて「みつたろう」と読む。日本を代表する彫刻家であり画家でもあったが、『道程』『智恵子抄』などの詩集が著名で、日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられる。著作には評論や随筆、短歌もあり能書家としても知られる。父・高村光雲は、上野の西郷像で有名。

2.谷川水車(たにがわすいしゃ) やまやのぎく 句碑

谷川水車の句碑

「春を待つ 路傍の石の 一つの吾」 谷川水車
谷川水車(大正3年10月31日生)立川市文化協会(前身立川市文化連盟)の創立に尽力。立川市民
俳句会代表として45年。「曲水」同人。「詩歌のみち」の提言者。
「どこよりも小学校のさくらかな」やまやのぎく
やまやのぎく(大正2年11月23日生~平成12年10月14日没)は立川市民俳句会創立者の一人で「曲水」同人として活躍されました。句集「冬麓」「冬泉」「人形の家」などがあります。この句は南富士見小学校の入学児へ贈った句で、「人はみな自分の小学校入学のときのことを忘れません。その時、さくらの咲いていたことも。」という意味です。
【平成13年除幕】

3. 鈴木貞次(すずき ていじ) 句碑

鈴木貞治の句碑

「麦負うて 道いっぱいに 揺(ゆ)り来(きた)る」

筑水こと 鈴木貞次(明治36年生~昭和44年没)は、趣味豊かな人で松田殊水に琵琶を習い 俳句
を 有山薫糸に学びました。立川に生まれ立川で育ち 富士見町で立川印刷会社を経営するかたわら 文化人の仲間で清談会や五日会をつくり 初代立川市教育委員長をつとめ地域の市民文化を育てました。この句は 今から50年程前 富士見町6丁目団地周辺が一面の麦畑であった当事のことを詠んだものです。【平成9年10月18日除幕】

4. 田中冬二(たなか ふゆじ) 詩碑

田中冬二の詩碑

「シクラメンの花と」
大晦日の夜十時頃
親しくしていただいてる花屋さんから
シクラメンの花鉢がとどけられた
すばらしい花だ
そのシクラメンと年越をした
スヰィートハートといっしょのように

田中冬二(明治27年生~昭和55年没)は福島県に生まれ 東京の立教中学校を卒業ののち 銀行員
となり 昭和21年 安田銀行立川支店長(現富士銀行)に就任しました。「晩春の日に」で 高村光太郎賞を受賞しました。この詩は 市内で花店を経営する三田鶴吉氏から贈られたシクラメンの花束にお礼の言葉を詠んだものです。【平成9年10月30日除幕】

5. 和田山蘭(わださんらん) 歌碑

和田山蘭の歌碑

「時雨(しぐれ)かと戸をあけてみればしぐれならず
星空さえて  多摩川のおと」

和田山蘭(明治15年生~昭和32年没)は 青森県に生まれ 青森師範学校卒業後 小学校教員になりました。明治43年 若山牧水の「創作」に参加 生涯5万首を詠みました。青森県歌壇の育ての親でもあります。また、書道に優れ昭和9年旧制府立二中書道教員着任のちに立川南口に雨晴書院書道塾を開きました。この歌は 自然の趣深く 冬の季感を詠んだものです。【平成10年10月30日除幕】

6. 若山喜志子(わかやま きしこ) 歌碑

若山喜志子の歌碑

「ひとりゐは あさこそよけれ わか竹の
露ふりこぼす かぜにふかれて」

この歌は 若山喜志子(明治21年5月28日~昭和43年8月19日)の歌集「芽ぶき柳」の一首です。歌の大意は「(夫の牧水に先立たれ)一人住まいは寂しい。でも その生活のなかにも清々しい一時がある。朝 家の前に立ち 若竹が風に吹かれてそよぐ様を見ると 秋が来たんだ という新たな思いを覚える。」という意味です。【平成7年4月14日除幕】

若山喜志子は、昭和3年9月に沼津で牧水を看取ったあと鈴岡に移り戦災に遭って昭和23年に立川富士見町2丁目の長男・若山旅人宅に居を移された。81歳で亡くなるまで歌人として活躍され牧水が創刊した「創作」も喜志子が後を継ぎ立川から全国に発信された。(参照:谷川水車「詩歌のみち」)

7. 中野藤吾(なかの とうご) 歌碑

中野藤吾の歌碑

「川原にかはらなでしこ咲くもよし空をうつして
水澄むもよし」
多摩川原に、秋の野草ナデシコが咲き、川水もますます澄んで、いつも美しい多摩川よ、と多摩川を愛する歌である。昭和26年作。この頃から昭和40年代のはじめにかけて、たくさんのすぐれた短歌をのこされた。平成2年に亡くなられるまで、明星大学教授、一生教職にあり、立川の郷土誌の語りべでもあった。「あの日、あの頃、あの辺り」「街の片隅から」の著書もよく知られている。【平成12年7月7日除幕】

8. 中村草田男(なかむら くさたお) 句碑

中村草田男の句碑

 「冬の水 一枝の影も 欺かず」

この句は 中村草田男(明治34年7月24日~昭和58年8月5日)が 昭和8年12月3日ホトトギス武蔵野探勝会の吟行会が普済寺で催された時に 根川を詠んだものです。句の大意は「小枝の影が(根川)水に映っている。水がとても澄んでいるので 枝の細かい所まで鮮明にわかる。」という意味です。【平成3年9月7日除幕】

平成2年に草田男が主宰した「萬緑」(ばんりょく)創刊500号を記念し普済寺に句碑を建てられないかとの相談を受け谷川水車が当時の青木市長にかけ合い立川市第一号の文学碑として平成3年9月に除幕。これを契機として「詩歌の道」建設へと続く。中村草田男:(明治34(1901)年7月24日 – 昭和58(1983)年8月5日)は、中国アモイ出身の俳人。東京帝国大学国文科卒。高浜虚子に師事、「ホトトギス」で客観写生を学びつつニーチェなどの西洋思想から影響を受け人間探求派と呼ばれた。「萬緑」を創刊・主宰。戦後は第二芸術論争をはじめとして俳句論争で主導的な役割をもった。

9. 水原秋桜子(みずはら しゅうおうし) 句碑

水原秋桜子の句碑

「初日さす 松はむさし野に のこる松」

水原秋桜子(明治25年10月9日~昭和56年7月17日没)俳誌「馬酔木(あせび)」を主宰。
この句は、第八句集の「蘆刈(あしかり)」の中のお気に入りの一句で昭和14年の作です。
戦前の立川には、まだ赤松や雑木林があり、武蔵野の風景がありました。こんな絵画美を詠んだ俳句をたくさん残され、すぐれた俳人を門下に育てられました。【平成13年9月8日除幕】

 

10. 若山旅人(わかやま たびと) 歌碑

若山旅人の歌碑

「霧にこもれる 多摩川 いつか雨となり
芽ぶく 楊(やなぎ)も ぬれはじめたり」

これは 若山牧水の長男 若山旅人(大正2(1913)年5月8日生~1998)が多摩川を詠んだ歌です。旅人は 昭和22年9月立川市富士見町2丁目に移り住み その後 父母の遺志を継いで「創作」を主宰し 作歌活動にいそしみました、歌の大意は「いつしか雨となった。銀色のまだ早春の楊(いわゆるネコヤナギのことで 一般のしだれ柳ではない)の芽も濡れはじめてきた。」という意味です。【平成7年4月14日除幕】

若山旅人:横浜国大卒業後。1級建築士として建築設計の分野で活躍。昭和47年から牧水の創刊した「創作」を母・喜志子、亡妻・いく子から継ぐ。母喜志子の全歌集も編纂。沼津市若山牧水記念館の館長も勤めた。

 

11. 若山牧水(わかやま ぼくすい) 歌碑

若山牧水の歌碑

「多摩川の あさき流れに石なげて
あそべば濡るる わが袂かな」

若山牧水(明治18年8月24日~昭和3年9月17日没)「創作」主宰。明治44年9月刊歌集「路上」にこの歌を発表。同時作に「多摩川の砂にたんぽぽ咲くころはわれにおもふひとのあれかし」があります。牧水は旅の歌人、酒の歌人として友人石川啄木の「一握の砂」と共に明治末年の歌壇の主流となっていました。 【平成13年9月8日立川市】

 

12. 池田澄子(いけだ すみこ) 歌碑

池田澄子の歌碑

「茜雲(あかねぐも) あえかに残り 亡母(はは)の
背の温(ぬく)みなつかし 武蔵野暮るる」

池田澄子(大正16年生~平成8年没)は 千代田区に育ち戦後結婚して立川に移り住みました。
夫の突然の失明のため 会社の経理を担当し経営を助けるかたわら短歌を学び平成2年に「透とほる窓」を出版しました。この歌は 川崎の会社から夫を車に乗せて帰宅中渋滞の日野橋を渡りはっと西空を見ると今にも消えかかる夕焼けが美しく 幼かった頃を思い出して詠んだものです。
【平成9年10月18日除幕】

 

13.  八木下禎治(やぎした よしはる) 歌碑

八木下禎治の歌碑

「日のいろの 寒き川原に ひらめける
芒(すすき)のそよぎ 声のごときもの」

八木下禎治(明治37年6月12日~昭和62年6月5日)は 大正4年立川に移り住み その後立川連合短
歌会を創立して歌誌「たちかわ」を発行するなど60余年短歌の歩みました。この歌は、冬の多摩川の川原の情景を詠んだもので大意は「スズキが寒風でさらさらと音をたてている。まるで声を上げているようだ」という意味です。【平成7年4月14日除幕】

八木下禎治:著作は、歌集「基地立川」「多摩川」、「立川市ゆかりの歌人」。本職は紳士服の仕立て。柴崎町3丁目に住む。国分寺の遺跡研究や立川市郷土史研究にも熱心で歴史研究会「立川清談会」をつくる。

柴崎町の石碑・モニュメント

日野の渡し碑

日野の渡しの碑

「日野の渡しの出来たのは
 いつの頃だか誰も知らない
 江戸時代中期貞享年間
 この渡しが移されたことは
 確かであろう
 かつては信濃甲斐相模への人々は
 この渡しを過ぎると
 遠く異郷に来たと思い
 江戸に向かう人々は
 江戸についたと思ったという」
作詞 三田 鶴吉    書   北村 西望(百参才)

上岡芳一(かみおか よしいち)の歌碑

上岡芳一の歌碑

「多摩川の渡し
 跡なるわが住まい
 河童ども招いて
 酒酌まむかな」
栃木県下都賀郡三鴨村に生まれ、戦後立川に住み、歌人として後輩の指導につくす。“新暦”の創立に参加し、同人として活躍。歌集「渡良瀬」上梓と共に逝去。昭和59年2月22日、享年68歳であった。割箸を使って字を書くことを特技とし、この作品も割箸によるものである。津久井石材店のご厚意により、この歌を刻んだ碑が日野の渡し碑の近くに建立される。(日野の渡し碑建立記念誌より)

【昭和61年10月除幕】

 

曙町の石碑・モニュメント

若山牧水(わかやま ぼくすい)の歌碑

若山牧水の歌碑

「立川の 駅の古茶屋 さくら樹の
  もみじのかげに 見送りし子よ」
この歌は 若山牧水(明治18年8月24日生~昭和3年9月17日没)が 明治39年に奥多摩への旅行の途中立川駅前で休憩した時に詠んだ作品です。昭和25年に市制10周年を記念し 立川観光協会により建てられたもので 碑は喜志子夫人の筆跡です。当時 駅前にあった桜の樹が 秋もさかりに赤い枯葉を茂らせている。その木陰の茶店の縁台で 牧水は食事をすませて出かけようとすると 店の子が見送ってくれた という意です。立川市【昭和25年12月1日除幕:立川北口駅前】

「明治三十九年秋十月、この地を過ぎ一首をものす。駅前数株の老桜あり、多摩桜と称す。茶屋、色あせたる赤毛布、村童の群、歌人の詩興をそそる。この一首は自然主義の最も良く現れたるもの。牧水は宮崎の産。祖父は埼玉県所沢の出。遺族は当市に居住。本歌碑は全国に於て第十番目に当たる。昭和二十五年十二月一日、市制施行十年に際し、歌人牧水の記憶のために建つ。立川観光協会」(設置当時の解説銘文。現在はなし)

※終戦後、駅前広場が強制疎開のあとをそのまま闇市に占領され、その闇市を整理してやっとの思いで駅前広場を拡張し確保し、そしてその広場の区画計画の中に、幾度か移転を余儀なくされながら、ともかく牧水の歌碑がそのゆかりの地、北口駅前に建てられ保存されて来たことについては、やはり関係者の努力を多としなければならない。(中野藤吾)基地の街立川のイメージを文化の街立川に変えようとした戦後間もない当時の立川市議会議長佐藤吉熊氏ら先人の努力が歌碑として実ったもの。

 

立川小唄記念碑立川小唄

立川小唄記念碑

立川小唄
作詞:大関五郎 作曲:町田嘉章
東京ばかりか浅川青梅
五日市から一走り
汽車だ電車だ川崎からも
空の都よ立川よ
☆わたしゃ飛行機風まかせ
舵の取りよで宙返り
オヤクルリトセー
ションガイナー飛行五連隊ありゃ格納庫
ほんに技術部さしむかい

東京ー大阪間に日本初の定期航空路が開設 (写真は昭和4年7月19日:立川飛行場)

ここは日本の飛行機の名所
空の都よ立川よ
☆繰り返し渡れ日野橋お茶屋が見える

 

浮いて静かな尾形舟
眺め懐かし秩父や御嶽
空の都よ立川よ
☆繰り返し

 

立川小唄記念碑建立由来
大正11年(1923年)立川に陸軍飛行場が開設、当初軍用だけでなく民間空港としても使用され、国内便の他、諸外国からも数多くの飛行機が飛来し、昭和6年(1931年)羽田空港が出来るまで、国際空港としての役割を担い立川は「空の都」と云われ飛行場とともに発展してきた。この立川小唄は、昭和5年(1930年)に制作、踊りと共に発表されたもので、飛行場だけでなく当時の立川の情景を27節に分けて描写し、空の都立川を謳歌し広く地域で歌われたもので、この記念碑にはそのうちの3節を選んで刻字したものである。戦後、飛行場は長年に亘り米軍基地として使用されてきたが昭和52年(1977年)返還され国営昭和記念公園を始め数々の跡地利用が進み、立川市は多摩の中核都市として大きく発展し、今やかつて立川が「空の都」と云われてきたことが消え去ろうとしている。この度、末永く「空の都立川」を伝えるため、かつての立川飛行場正門前のこの地に記念碑を建立する所以である。
平成29年5月吉日 立川小唄記念碑建立委員会

立川倶楽部.com 「立川小唄」

立川村十二景 セラミックアート
立川12景の碑 2020.7.16

立川十二景の記念碑 平成3年設置

「立川村十二景は、市内曙町に居住していた故馬場吉蔵氏が、立川市がまだ村であった明治三十年代の、村内の主要な十二か所を、昭和の初期に水彩画に描き上げたものです。
 この十二景は、風景ばかりでなく、当時の風俗もよく伝えています。
 市制五十周年を記念して、憩いの場を設けることになりましたので、これをのこすことにしました。
 二十一世紀に向けて、発展を続ける当市の古い姿を知ることも大切なことと思います。」【平成3年3月除幕 市制50周年記念憩いの場 北側園内】
→ 立
川倶楽部.com 「立川村十二景」

 

 

富士見町の石碑・モニュメント

山中坂悲歌の歌碑・碑文

山中坂悲歌 (エレジー)
 作詞 小沢長治 作曲 新田光信
夜明けが遠い 闇の中 
山中坂の防空壕に
息つめよりそう四十一人
子ども年より女の人 
爆弾つんだ飛行機がくる闇をひきさき とどろく音 
防空壕に爆弾が落ちた
埋められた四十一人
子ども年より女の人 
二度とかえらぬみんなの命ああ 悲しみが坂を流れる 
桜の花がなきがらに降った
あの日のように花びらが舞う
山中坂よ 小さなほこら 
お地蔵さまに祈る誓いあの悲しみを くり返さない 
あの悲しみを くり返さない 碑文
太平洋戦争の末期、立川は1945年(昭和20年)2月16日から8月2日までの間、少なくとも13回の爆撃を受け、330余名が犠牲となった。
ここ山中坂にあった横穴式防空壕は、4月4日未明、B29が投下した爆弾が直撃し、中に避難していた子供たち32名をふくむ42名が死亡した。
平和をねがい、思いをおなじくする私たちの挙出金、土地所有者の株式会社伊藤商店のご協力によってこの歌碑を建立し、戦争の悲劇を再び起こさないことを誓います。 1995年4月2日
立川市富士見町5丁目にある坂は「山中坂」と呼称されていた。残掘川の崖、川崖線に面した坂。この地には崖を利用して横穴式の壕が掘られていた。もともとは役所の重要書類を退避させるために掘られた所蔵庫であったが、使われなくなったので近所の住民が防空壕として活用をしていた。昭和20年4月4日午前1時頃に空襲警報が発令。 第二波の空襲が特に激しく人々は山中坂の防空壕に避難していた。このとき、B29が投下した250kg爆弾が防空壕の入り口付近に命中し、防空壕の中にいた全員が犠牲となった。犠牲者は42名。防空壕のあった被災地跡には亡くなった人々の霊を慰めるために「戦災供養地蔵尊」が建立されている。