立川小唄の誕生
昭和初期、八王子、青梅、府中などの各町でそれぞれ小唄がつくられて宴会などで盛んに歌われていた頃、立川でも作ろうとの機運が盛り上がり、郷土史家・作詞家であった原田重久氏、立川印刷の経営者:鈴木貞治氏、立川シネマの経営者:並木吉蔵氏がスポンサーとなり立川町長の中島舜二氏や後に立川商工会議所初代会長の中野喜介氏も後援者として加わり昭和5年(1930)に制作発表された。(立川小唄碑建立記念誌・豊泉喜一寄稿文参照)「立川小唄」には、「空の都立川」と言われた頃の昭和初期(戦前)の世界を舞台に飛躍する立川の街の姿が良く描かれいる。
立川小唄を読み解く
参考資料:立川小唄碑建立記念誌 NPO法人立川教育振興会 2019.3.31発行
1 | 忍び泣くよな春雨晴れて 吹くよ そよ風 武蔵野に 朝日うららかスポーツ日和 空の都よ 立川よ※わたしゃ飛行機 風まかせ お前のでようで 宙返り オヤクリトセー ションガイナー |
武蔵野:かつて、立川駅の北方面(緑町)を武蔵野(上武蔵野・下武蔵野)と呼んでいた 空の都:大正11(1922)年に立川飛行場が完成。軍民共用飛行場として利用された。世界各国からの飛行機も飛来し、日本初の立川―大阪間の定期航空も始まった。 お囃子ことば:「わたしゃ飛行機 風まかせ お前のでようで 宙返り オヤクリトセー ションガイナー」は、元の歌詞に民謡の作曲家:町田嘉章氏が新たに付け加えた。町田嘉章氏の作曲の三絃曲(三味線)の場合にそれぞれの末尾に附加える。“お前のでようで 宙返り”の個所については、「舵の取りよで」あるいは「あなたの出ようで」とその場の雰囲気で言い換えられた。多摩信用金庫の宴会では、「舵の取りよで」と歌われているらしい。 |
2 | 東京ばかりか浅川青梅 五日市から一走り 汽車だ電車だ川崎からも 空の都よ、立川よ |
中央線:明治22(1889)年に新宿ー立川が開通(甲武鉄道)、浅川駅は、高尾駅のこと 青梅線:明治27(1894)年に立川ー青梅が開通(青梅鉄道)、昭和19年に国有化 五日市線:昭和5(1930)年に立川ー拝島が開通(五日市鉄道)昭和19年、立川拝島間廃止 南武線:昭和4(1929)年に川崎ー立川開通(南部鉄道)し翌年、立川駅南口ができた |
3 | 飛行五連隊ありゃ格納庫 ほんに技術部さしむかい ここは日本の飛行機の名所 空の都よ、立川よ |
飛行五連隊:大正11年に飛行場ができると岐阜県各務原より陸軍飛行五連隊が移ってきた。 格納庫:航空機の格納庫は、飛行場の東側(現在のモノレールの辺り)にあり、航空技術部は西側の差し向かいに位置していた。 |
4 | 鳩か蜻蛉かあのサルムソン 飛ぶよアプロ機ドルニエー機 シャンがすましてフォッカーに乗った 空の都よ、立川よ |
アプロ機・ドルニエー機:戦闘機、爆撃機 フォッカー:羽根が1枚のドイツ製の民間航空機。立川ー大阪間を飛んだ。乗員2人と乗客6人を乗せて大阪まで3時間。運賃一人30円 シャン:美人を指す言葉。ドイツ語から来ている |
5 | 可愛い兵隊さんだ明るい朝だ ほんに強そうな重爆の ろゝんろゝんとプロペラ廻る 空の都よ、立川よ |
重爆:重爆撃機の略。爆弾の搭載量が大きく航空距離も長い大型の爆撃機 (写真は、第5連隊・大正時代) |
6 | 飛行学校かみくにの人か 何故かお話してみたい 春の日永の日が暮れかかる 空の都よ、立川よ |
飛行学校:立川飛行場には、日本飛行学校と御国(みくに)飛行学校の2つの学校があった(写真は、日本飛行学校) |
7 | 月に浮かれた夜鴉じゃなし 赤い灯りが尾を引いて 夜間飛行はありゃサルムソン 空の都よ、立川よ |
サルムサン:2枚羽。赤とんぼと呼ばれた練習機、偵察機 |
8 | 春はよいもの狐の思案 昔恋しい ふじ塚で 今夜化けよか明日にしよか 空の都よ、立川よ |
ふじ塚:富士見町交番の裏にある富士塚。崇拝対象として富士の姿を模して作られた(写真は、現在の富士塚) |
9 | 雨よ降るなと桜が咲いた 嬉し約束 ほごになる 明日は普濟寺あの花祭り 空の都よ、立川よ |
普済寺:柴崎町にある臨済宗寺院。毎年、4月8日に釈迦の誕生を祝う花祭りが行われ、甘茶が配られる(写真は、大正時代中頃の普済寺:茅葺き屋根の本堂・屋根のない六面とう) |
10 | いつか浮名の流れて咲いて 人目忍ぶよ 蛇の目傘 好きじゃとらないこの左褄 空の都よ、立川よ |
浮名:錦町1丁目に見番(けんばん)があり、立川の芸者は、ここに登録して料亭に行った。 左褄:読み方はひだりづま。褄は、着物の裾の端のこと。芸妓、舞妓が左手で裾を持って歩くことから芸者のことをこう呼んだ |
11 | 朧月夜のチラゝゝ灯り 芝地通れば、なつかしや 恋の花咲くキネマが見える 空の都よ、立川よ |
キネマ:高松町3丁目にあった立川キネマのこと。大正11年に開業し、立川小唄の発表会もここで行われた。大正時代は、男女別々の椅子席(写真は、キネマ座:大正時代) |
12 | 五月節句の仲町通り 若い憲兵さんの、うしろかげ 誰が見ていた懐かしがった 空の都よ、立川よ |
仲町通り:現在の曙町駅前大通りのこと。現在の中武ビル「フロム中武」の向かいあたりに憲兵隊があった (写真は、昭和35年頃の中武ビルからの景色) |
13 | 心気くさけりゃ貝がら坂へ 行こか太古(むかし)の貝堀りに さつき花咲く日曜じゃないか 空の都よ、立川よ |
貝殻坂:富士見町5丁目の山中坂下の坂道。普済寺付近の立川凱旋の坂道で、古代に海が(東京湾)が隆起したので貝の化石が崖に見られる。なお、至誠学園の近くにも別の貝殻坂がある。(写真は昭和25年頃の貝殻坂と根川にかかる橋:現在の馬場坂下橋) |
14 | 渡れ日野橋お茶屋が見える 浮いて静かな、屋形船 眺め懐かし秩父や御嶽 空の都よ、立川よ |
日野橋:大正15(1926)年開通 |
15 | わたしゃ夏帯さらりとしめた 今夜嬉しい、蛍篭 さげて行きましょ立川田圃 空の都よ、立川よ |
蛍籠:根川や柴崎用水には蛍がたくさん生息していた。 立川田圃:現在は柴崎町の立川公園の東隣1カ所に柴崎用水を利用した水田がある |
16 | 揺れる蘆間によしきり鳴いて 眺めはるかな、富士の山 今日は根川で鮒釣りましょか 空の都よ、立川よ |
よしきり:スズメ目ウグイス科。中国南部から夏鳥として渡来する。 根川:残堀川と合流し、立川崖線に沿って多摩川に落ちる川。現在は、遊歩道として整備され一部詩歌の道になっている。何度か河川工事が行われ当時と流れは変わっている。(写真は昭和28年頃の根川河畔) |
17 | 誰が忘れたきれいな帯を しかも田圃の、真ん中に なんの中澤月夜の川だ 空の都よ、立川よ |
多摩川から引水した九ヶ村用水の余水堀中澤が月の光で美しい帯が落ちているように見えたことを表現している (九ヶ村用水:拝島町付近の多奈川から取水し、昭島市南部の八村と柴崎村を通り残堀川に落とす昭和用水のこと) |
18 | 神輿もみゝゝ若衆が渡りや ふけて静かな夏祭り 可愛いあの子の縁結び橋 空の都よ、立川よ |
縁結び橋:柴崎町と富士見町にかかる陸橋、8月27日の風祭と7月25日の天王様の縁日には、夜店が出て若い男女のデートスポットとなった |
19 | 水の流れの玉川砂利よ 鮎のどぶ釣り、あんま釣り 釣れりゃ瀬釣りのさて面白や 空の都よ、立川よ |
玉川砂利:五日市線、砂利線(中央線の添線)があり多摩川の砂利を運搬していた。砂利線は昭和30年代に廃線になったと思われる どぶ釣り:鮎毛針を付け淵(どぶ)で錘を静かに上下に動かして釣る あんま吊り:1m位の短い竿に竿より長めの糸で浅瀬の川中に立ちながら釣る。 |
20 | 船頭裸だ鮎漁の客だ いまは鵜飼の、屋形船 浴衣がけだよおしゃれな女子 空の都よ、立川よ |
鮎魚:多摩川の鮎は江戸時代から高級魚で幕府への献上品 鵜飼:多摩川の鵜飼は、漁師が川に入り鵜を操り鮎を獲る(徒歩鵜:かちう)、客は尾形船からその様子を見る(写真は、明治30年頃の多摩川の鵜飼の様子) |
21 | 二十日宵闇河原の花は 河原なでしこ、月見草 離ればなれの中州にひらく 空の都よ、立川よ |
河原なでしこ:多摩川の日野橋の上流に中州があり、河原なでしこが群生していた |
22 | 香りなつかしメロンの出来る 農事試験場だ、雌鳥がなく 女心の初恋をする 空の都よ、立川よ |
農事試験場:昭和村と立川町にまたがる東京府の農事試験所と実験用地。現在は、東京都農林総合研究センター(富士見町) (写真は、昭和15年頃の農業試験場) |
23 | 子安農園養豚場の 豚は種豚、おしゃれ豚 夜間飛行じゃびっくりするな 空の都よ、立川よ |
子安農園養豚場:三菱系企業が開いた日本最大の養豚場で昭和16年に神奈川県大和市に移転。現在の昭和記念公園西立川口近く、水鳥の池あたり (写真は、昭和初期の子安農園養豚場) |
24 | 日本晴れだよ法螺貝が鳴る うちの太郎は、棒使い 笛だ太鼓だ獅子舞が来る 空の都よ、立川よ |
太郎:長男のこと 棒使い:諏訪神社の獅子舞では棒を使った舞を奉納する (写真は、諏訪神社の奉納獅子舞) |
25 | 見ろよ舞込み雄獅子と雌獅子 「松にからまる蔦の葉も」 歌は良いもの獅子舞歌は 空の都よ、立川よ |
「雄獅子と雌獅子」:諏訪神社の獅子舞は、「大頭」「中頭」という雄獅子と、雌獅子の三獅子が舞い、「幣追い」と呼ばれる「天狗」が舞いに加わる。「松にからまる蔦の葉も」:諏訪神社の獅子舞に伝わる古歌の文句。「獅子舞のうた」は、19番まである。6番が「松山の松にからまるツタの葉も えんが つきれば ほろり ほろりよ」 |
26 | 五十六十じゃ未だ年や若い 太鼓叩いて、秋祭り 可愛がられるあの諏訪さまに 空の都よ、立川よ |
諏訪さま:諏訪神社のこと (写真は、昭和30年頃の諏訪神社) |
27 | 雪の大山丹沢秩父 晴れりゃ輝く、冬の富士 ここは普濟寺咲く寒椿 空の都よ、立川よ |
大山丹沢秩父~富士:立川の多摩川河岸から見る大山丹沢の山並みと富士の景色は素晴らしい。特に冬場は、よく見える。 (写真は、多摩川から望む富士山) |
28 | 昔寂しい立川駅も 今じゃあ明るいモダーン駅 昔はエンジン・ハンマーの響き 空の都よ、立川よ |
立川駅:甲武鉄道開業の明治22年設置。南口はその40年後の昭和5年設置。 (写真は、昭和7年頃の立川駅北口) *この28番にあたる歌詞は公募一等賞 |
29 | 暮れりゃほのかになまめくあかり 東立川、恋の街 粋な爪弾き待ち人かけて 空の都よ、立川よ |
東立川:立川駅と西国立駅の間にかつてあった南部鉄道の駅の名前。昭和19(1944)年に国有化とともに廃止された。周辺に料亭や芸者置屋があった *この29番にあたる歌詞は公募二等賞 |
30 | 左国立右行きゃ府中 光るレールのわかれみち ほろちほろりと桜が散るよ 空の都よ 立川よ |
左国立右行きゃ府中:甲武鉄道(中央線)は、国立駅を通過する、南部線は府中本町駅を通過する *この30番にあたる歌詞は公募三等賞 |
立川小唄の背景
作詞者は、新進作家の大関五郎氏だが実質は、鈴木貞治氏のメモを参考にしたと言われている。作曲は、当時、帝都座の楽長をしていた田中豊明氏が担当したが、洋楽風の曲調であったため、三味線や踊りに乗らず、民謡の作曲家:町田嘉章氏が新たに作曲した。27番までの歌詞があったが、発表に際し、立川小唄を募集し3節が加わり30節となった。なお、昭和5(1930)年4月10日の発表会は、立川キネマに立川芸妓が総出演し八王子、青梅、府中からの芸者衆も集まり盛大に行われた。飛行機の飛ぶ姿を取り入れた特徴ある踊りも話題を呼んだ。5月10日には、11名の芸者衆がJOK(現NHK)から立川小唄を放送した。昭和初期の三多摩地域で競い合う実業家の姿や郷土愛に燃える立川の心意気が伺われる。大正11(1922)年当時は、人口7,000人に満たなかった立川村であったが雑木林を切り開き面積45万坪、600mの滑走路を持った飛行場が出来ると岐阜県各務原市より陸軍飛行第五大隊(のち五連隊)が移駐し、民間の飛行学校や朝日新聞社、日本航空輸送(株)などが入り、東京で初めての本格的な軍民共用の飛行場であった。世界一周旅行や太平洋横断飛行、など世界各国から飛行機が飛来。また、日本初の立川ー大阪・仙台間の定期旅客輸送も開始し、立川は民間航空発祥の地でもある。飛行場開設の翌年、大正12(1923)年には、立川村から立川町に変わり町は急速に発展した。
**********************
参考資料:「立川小唄碑建立記念誌」 立川小唄記念碑建立委員会 2019年3月31日 けやき出版
「グラフたちかわ」歴史のおくりものー立川小唄を唄えますかー 原 正壽 1980年
「多摩のあゆみ」27号 多摩川の歌シリーズ「立川小唄」から「新立川温度」まで 蓑田 倜 1982.5.15
「西部新聞0425」1975.年12月12号、1981年1月17号
「今昔写真集たちかわ」1975年3月30日 立川市教育委員会
「市制50周年記念写真集たちかわ」1990年12月1日 立川市教育委員会
「しばさきあちこち 大正・昭和初期の立川」2001年1月27日 立川 治雄 けやき出版