立川村十二景

「馬場吉蔵画 立川村十二景」 発刊にあたって

   立川村十二景」は、市内曙町に居住していた故馬場吉蔵氏が子どもの頃、立川市がまだ村であった明治30年代 の村内の主要な12ヶ所をスケッチし、これをもとに昭和の初期に至って水彩画に描きあげたものです。カメラのほとんどない時代に、立川村の場所を絵画という写実的な形で後世に伝えていることは、立川市にとって非常に貴重な文化財であるため昭和50年3月「市重宝第13号」に指定いたしました。

この十二景は風景ばかりでなく、当時の風俗もよく伝えており、一枚一枚の絵に私達の生活の基礎を築きあげてくれ た祖先の尊い姿が見られます。古き明治時代の村のようすをしのび、その生活をふりかえるのも古くからお住まいの方々にはなつかしく思い出され、新しく住まわれた方々には新たな思い出としてきっと皆様の郷土を愛する心にも通ずるものと思います。

発刊に際して所有者である馬場寿夫氏をはじめ関係者の方々に心よりお礼申し上げます

昭和52年3月    立川市教育委員会
(解説は、昭和52年当時の記述ですので現在の立川の姿と一部異なっています)

1.立川駅千本桜         明治35年時代

立川駅千本桜 t12 a

1.立川駅千本桜

たちかわえきせんぼんざくら:これは今の中央線が、むかし「甲武鉄道」といわれていた当時の立川駅(北口)のようすを描いたものです。
駅には濡れ縁のようなものがあって待合室の代わりを務めており、ここに赤いケット(毛布)を羽おって待っている人がみえていますが、これはこの頃の風俗で、旅行に出る者はマントの代りに用いたものでした。
画面左側には鉄道博物館の「弁慶号」を思わせる機関車の頭の部分が少しみえ、往時をしのばせます。また、右側には満開の大きな桜の木がありますが、これは後年「玉桜」と命名され、駅の関係者や住民から親しまれました。
明治45年(1910年)歌人若山牧水が立川におりたった時、「立川の駅の古茶屋桜木の もみじのかげに 見送りし子よ」と、この桜を題材とした歌を詠むなど、立川のシンボルの感がありました。なお、「甲武鉄道」は明治21年3月14日、資本金90万円をもって敷設を出願し、同月31日、本免状を公布され、6月より工事に着手して、明治22年4月11日、新宿―立川間の営業を開始しました。そして8月11日には立川―八王子間が開通して初期の目的を達成しましたが、その後、明治40年に至って国有鉄道となり、「中央東線」と称しました。
※明治27年に青梅線(立川-青梅)、大正14年に五日市線(立川-五日市)、昭和4年南武線(立川-川崎)が開通。昭和61年には、モノレール(上北台-多摩センター)開通。

2.中央線山中眼鏡橋

中央線山中眼鏡橋 t12 a 2

2.中央線山中眼鏡橋

ちゅうおうせんやまなかめがねばし:諏訪神社の西側、市立第一中学校の北側道路から富士見町方面へ向かう今の「眼鏡橋」のむかしのようすを描いたものです。明治時代のこの橋は、両側面は赤いレンガで積み上げられ、その下を「甲武線」(現在の中央線の前身)が通っていました。当時の甲武線は単線でありましたので一つしかトンネルが掘り抜いてありませんでしたが、遠めがねの意味でしょうか、「眼鏡橋」と呼ばれていました。「眼鏡橋」は、立川村の人々にとっては、畑に耕作に行く道、あるいは基地跡地になっているかつての山林へ落葉かきに行く道など、主に農道として利用されました。 また、掘り抜きであるため、少し離れたところから、「オーイ」と呼べば、「オーイ」と山彦してくることや、レンガで積み上げられているという一風かわっているところから、子ども達にとってはおもしろ味のある橋、大人にとっては珍しい橋ということで、人気のある橋でもありました。なお、この辺はもと平地でありましたが、「甲武線」が八王子まで伸びるに際し、多摩川鉄橋とのレベルの関係で根川べりまで掘り込んでいきましたが、たくさん出た土は段丘の出口から先の低地へ運び、土を盛ってその上に鉄道を走らせて、鉄橋の高さにあわせたということです。
多摩川鉄橋:甲武鉄道の立川駅ー八王子間の延伸工事に伴って明治22年8月11日に開通。       

            

3.山中陸橋   明治37年時代

山中陸橋 t12 a 3

3.山中陸橋

やまなかりくばし:甲州街道から分かれ、立川村を通り、青梅に通じる奥多摩街道にあって、「甲武線」(現在の中央線の前身)にかけられていた「陸橋」のむかしのようすを描いたものです。木造で「山中の陸橋」と呼ばれ、字横丁〔あざよこちょう〕(現在の柴崎町1丁目)、字番場〔あざばんば〕(現在の柴崎町4丁目)から、字山中〔あざやまなか〕(現在の富士見町5丁目)に通ずる中間にかけられ、立川村の中心部にあったため、いろいろな意味で村にとって重要な橋でした。鎮守の宮、諏訪、八幡両社の夏祭りのおりなどは、村人に限らず、近隣近在から多くの人が集まり、特に山中のみこしがこの橋をわたって諏訪神社に行く時などは、身うごきできない人が出て、橋のたもとには露天が店をはり、木立のあいだには祭り行燈〔あんどん〕が立てられるなど、この古めかしい橋を背景にローカルな味を出し、なかなかの風情をかもし出したものでした。また、この橋のらんかん部分には、村の水不足を補う目的で、玉川上水から引き入れ、村をくまなくめぐる「柴崎分水」が通っていて、字山中から字横丁、番場へと水を渡していましたが、今では奥多摩街道が改修され、橋がもとの場所よりも十メートルほど南側にコンクリート製の架け替えられた際、水の渡しは、この橋と切り離されて、依然として従来の位置にパイプでその流れを伝えています。
山中陸橋:むかしの立川村の中心部。山中部落の祭典の時には露店が並ぶ。(馬場啓)

4.甲州街道多摩川増水渡船   明治時代

甲州街道多摩川増水渡船 t12 a 4

4.甲州街道多摩川増水渡船

こうしゅうかいどうたまがわとせん:今の日野橋のところから上流にむかって二百メートルほどのところ、市の下水終末処理場西側角付近に、かつては甲州街道の「日野の渡し場」がありましたが、この絵は、その「日野の渡し場」のようすを描いたものです。当時の甲州街道は、現在の日野橋交差点右手斜めに入り、錦町5丁目の小堺商店のところから左におれ、市営プールから下水終末処理場のわきを通って多摩川まででていました。多摩川には平常日野町でかけた仮橋がありましたが、しかし夏場の増水の時にしばしば流されてしまうので、橋が流出するところに渡船場が設けられており、さらに竿だけでは流れが強くて船が流される危険があるので、ワイヤーロープをはってこれに船をつなぎあやつったものでした。そして、荷馬車を乗せたり、荷車を乗せるということは、小さな船であったため、なかなかの難事業であったというこです。その他、この絵では九髷〔まげ〕を結い、着物姿の女性や大わらわの童女、あるいは管笠姿に脚半〔きゃはん〕の旅人など、当時の風俗がよくわかります。日野の渡しは、日野町で仮橋をかけ、渡橋料をとっていましたが、大正15年(1926年)日野橋ができると自然消滅してしまいました
「日野の渡し場」:現在の「立日橋」【1989(平成元)年開通】あたり。昭和初期には、幅一間ほどの板を敷板に詰めた仮橋があった、片道2銭。(馬場啓)

5.多摩川河畔丸芝鮎漁場   明治36年時代

多摩川河畔丸芝鮎漁場 t12 a 5

5.多摩川河畔丸芝鮎漁場

たまがわかはんまるしばあゆりょうば: この絵は、多摩川における鮎漁のようすを描いたもので、鮎宿は字下和田にあった「丸芝館」です。「丸芝館」は、錦町五丁目の今の「楽水荘」のところにあって、上に本館があり、段丘下にこの店がありました。多摩川のふちに設けられたこの店は、増水時には流されたり、毎年時期を過ぎると取り片付けられるため、このような簡易な仮小屋造りに建てられていました。多摩川における鮎漁は江戸時代から名高く、特に付近で取れる鮎は将軍に献上されることになっていたほどでした。そのため、明治時代に入って封建的身分制度が廃止され、いろいろな制約が取払われると、鮎漁の最盛期には大勢の人が東京方面からやってきて漁を楽しみました。「丸芝館」ではお客が着くと、お客は上の本館で浴衣に着がえて下の仮小屋の所までおり、屋形船をやとい、鵜飼いの鮎漁を楽しみながら、舟の中で鮎を賞味するというのが常でした。また、鮎漁客があるとこの店の前で花火を打ち上げて客のきたことを知らせると、川上、川下で鮎漁をしていた漁師が、この合図でここに鮎をもちよったということです。なお、多摩川の鮎漁は、鵜匠が昼間、鵜とともに川に入って漁をする「徒歩鵜」〔かちう〕という方法で、岐阜県の長良川などの漁法とは大変にことなっていました。

6.甲州街道多摩川渡し雪景     明治36年時代

甲州街道多摩川渡し雪景 t12 a 4

6.甲州街道多摩川渡し雪景

こうしゅうかいどうたまがわわたしせっけい:当時の甲州街道は、日野橋交差点から左にまがらず、斜め右手におれ、それより200メートルほど西へ進んで現在の錦町5丁目の小堺商店から、市営プールのわきを通り、下水終末処理場の西側を通って多摩川に出ていました。そして多摩川には渡し場が設けられ、交通の利便に供していましたが、この絵は、その渡し場附近で雪の中にもかかわらず、多摩川砂利を採掘しているようすを描いたものです。当時、多摩川の砂利は立川周辺から調布にかけて採掘されましたが、この頃の作業は手掘りで行われ、もっこを使って運搬するのが常でした。しかし、もっこによる運搬は砂利の重みがずっしりと肩にくいこみ、特にこの絵のような雪の中での作業となると、さらに雪の重みも加わって、当時の人々の苦労がしのばれます。そして採掘された砂利は、荷馬車の上に木箱を十個ほど乗せた中に入れられて、今の立川駅南口のところまで運ばれました。その後、この採掘が発展して大仕掛けとなり、普済寺〔ふさいじ〕の下の中央線多摩川信号所の所から川に沿って東西に線路がしかれ、この鉄道によって砂利を運搬するようになりました。この鉄道は砂利を専門に運ぶため村の人々は「砂利線」と呼んでいたということです。
日野橋:現在のコンクリート製の大正15年8月25日落成。2019年10月12日日の東日本台風(台風19号)で一部道路が陥没。翌2020年5月12日に復旧。

 

7.貝殻坂立川亭鮎漁場      明治30年時代

貝殻坂立川亭鮎漁場 t12 a 7

7.貝殻坂立川亭鮎漁場

かいがらざかたちかわていあゆりょうば:この絵は、立川昇三氏が経営していた貝殻坂(富士見町5丁目)の「立川亭」のようすを描いたものですが、「立川亭」は、当時根川に面して建てられ、立川では大きい部類の属する料亭でした。画面右側に見える細い滝のような流水は、甲武線(現在の中央線の前身)を八王子まに通すに際し、立川段丘と多摩川にかける鉄橋とのレベルの関係から、立川駅を出るとまもなくの所から、段丘の出口まで掘り込まれましたが、ここから流れてくる地下水で、貝殻坂から根川に落ちこませていました。この料亭は、崖の斜面に建てられていたことから、お客は駅から送りこまれると、裏から入っていきなり三階に通されるので、逆に上から下におりてきて、田園をながめ、富士を鑑賞しながら自慢の鮎料理を味わうという一風変わった建物の料亭でした。そして、鮎漁にきたお客は、この料亭で着物を着がえ根川にかかる仮橋を渡って多摩川までおり、漁をしたということです。しかし、「立川亭」は明治の終わり頃になると、種々の事情から取り払われてしまいました。この当時の根川は、川にとび込んで水泳ができるほどに水が豊富で、きれいな流れをしており、川魚もたくさんおり、村の人々にとっては格好のつり場ともなっていました。
※現在は、河川改修工事により根川から残堀川河畔となる。なお、かつて江戸時代は、多摩川がこの位置まで流れていた。

8.立川駅前通り     明治35年時代

立川駅前通り t12 a 8

8.立川駅前通り

たちかわえきまえどうり:立川駅北口東側の図で、現在にあてはめると、駅の荷物積みおろし場所から、電話ボックス附近に当たります。画面右側に枕木のようなものを利用して、垣根が設けられていますが、これは当時の駅構内の荷物の積みおろし場所で、その向こうの角は、金物あるいは陶器などを大きく取扱い、大商店として有名であった「かね中」の店舗です。なお、店舗の裏には白かべの大きな土蔵が設けられ「中」という商標が見えています。さらに、北側につづく家屋が「丸屋呉服店」でこれも大きな白カベの土蔵を構え、当時の大店〔おおだな〕のようすがうかがえます。また、画面中央の材木運搬のようすは、牛も馬も使わないで、砂川方面から駅まで引っ張ってきた光景ですが、古老の話によれば、これは欅材〔けやきざい〕で、砂川方面にある大きな欅材を出すのに、欅の歯車を使って運搬し、わずか二キロ位のところを数日費やして、ただ人力をもって、エイ エイとコロを使い、テコを用いてようやく立川駅前まで運んできたということです。そして、駅の荷物積みおろし場で、「甲武線」(現在の中央線の前身)に積み込まれ、東京歩面に運ばれましたが、足をふんばり、渾身の力をこめて歯車をまわす人々のようすにも、ようやく駅までたどりつき。もうひとがんばりという心意気がうかがえるようです。

 

9.立川駅前砂川街道      明治36年時代

立川駅前砂川街道 t12 a 9

9.立川駅前砂川街道

たちかわえきまえすながわかいどう:明治時代末期の立川駅北口は、駅前に現在のような広いロータリ-はなく、「塚善」〔つかぜん〕と呼ばれる料亭が正面まじかに迫って建てられていました。この絵はその「塚善」の右側から砂川方面に通じ、かつては「砂川街道」と呼ばれた通りのようすを描いたものです。場所的には、右手前に屋根の一部見える所が、現在でいうと北口駅前交番の北側附近に当りますが、当時は、この道路をはさんで向かい側には「あづま屋」という旅館建てられていました。甲武線(現在の中央線の前身)では、最初立川駅を終点としていたことから、この旅館を利用する人も多く、たまたま明治43年(1910年)に多摩川が大増水して、対岸日野から普済寺崖下まで水がでて、鉄橋が危険になったため鉄道が途絶したことがありましたが、この時などは旅行者がみな「あずま屋」に宿をとり、この旅館が超満員になったという話も伝わっています。また、ちょうど「あづま屋」の前の道を白馬の一頭立ての馬車にのった紳士が通りかかりますが、この人は筆者の説明によれば、当時北多摩郡長を勤めていた砂川源五右衛門氏で、砂川の自宅から立川までくるのに、決まってこの馬車で立川駅に乗りつけたということです。
あずま屋:旅人宿、甲武鉄道が開通した明治22年開業。馬場吉蔵氏の生家。(立川村十二景を描いた父:馬場啓著から)

10.立川駅前茶亭      明治36年時代

立川駅前茶亭 t12 a 10

10.立川駅前茶亭

たちかわえきまえちゃてい:正面に二階建ての見えるこの茶屋風景は、立川駅から北に向かって、「塚善」と呼ばれた料亭をえがいたものです。現在、駅前には、ロータリーが設けられ、バスの発着所あるいは、タクシーの待合所となっていますが、当時はロータリーなどはもちろんなく、正面の「塚善」が駅前まじかに建てられていました。画面右側に見える大きな木は、「塚善」の柳で、立川では有名なものでありましたが、柳の木の下には乗合馬車が向こう側をむいて見えますが、この乗合馬車は、立川ー砂川間を砂けむり立てて、いまの豆腐屋の使うようなラッパを吹きながら、カラカラ音を立てながら走っていました。一日に五~六回しか出ず、六~七人づつ向かいあって乗車できるほどの小さなものであり、古き明治時代の風俗をしのばせます。画面左側には人力車のたまりがあって、小さな建物の中に数台並び、車夫車夫がのんびり人待ちをしていますがもちろん自動車のない頃のことで、立川駅を利用する乗降客の足に大いに利便を与えました。また、「塚善」の掛茶屋にお客が休んでいますが、これは汽車を待っている光景で、駅の濡れ縁はつらいという人がここにきて、汽車がでるまで何時間も待っていました。茶代は、二銭でしたが、汽車の待時間が非常に長いため、待合所が商売として成り立っていたということです
塚善:大正元年11月の武蔵野原特別大演習の折、大正天皇が「塚善」で昼食を取る。(立川飛行場物語:三田鶴吉著から) 

11.立川村澤立川村尋常高等小学校  明治37年時代

立川村澤立川村尋常高等小学校 t12 a 11

11.立川村澤立川村尋常高等小学校

たちかわむらさわたちかわむらじんじょうこうとうしょうがっこう:柴崎町4町目の普済寺の東、現在第二水源地として市の水道部に管理されているところにあった「立川小学校」(現在の市立第一小学校の前身)の図で、明治11年(1878年)4月、普済寺より寄付された1650平方メートルの敷地に、平屋建一棟211平方メートルを新築し、同22年1月、小川歌子女子よりの寄付により二階建校舎約63平方メートルを増築した時のものを描いたものです。これより先、わが国の近代教育は、明治政府の手で明治2年「府県施設順序」が定められ、「小学校を設けること」が決められ、出発しましたが、これを受けて全国各地に小学校が設置されるようになりました。立川村における小学校の出発は、明治3年、従来の寺子屋では不統一に流れ、その程度も不整いであるということから、学校開設の議が起り、普済寺の本堂を教室にあて、村の人、板谷元右衛門、柳生楳軒らが教師となり、子ども達を集めて生徒とし、郷学校として出発しました。そして、同5年「学制」が発布された年に、隣接の民家を借りて教室を増設し、「ぐ頴学舎」〔ぐえいがくしゃ〕と改称しました。その後、い児童数がしだいに増加し、120余名になったことから、狭い民家では収容不能になったので、校舎新設の議が起り、普済寺より土地の寄付をうけて、前述の場所に明治10年11月に新築し、同11年四月、開校式を挙行したのです。
※立川第一小学校の創立記念日は明治3年3月3日、普済寺の本堂を教室として開設された。大正2年に現在の柴崎町2丁目に移転。

 

12.所沢街道八店     明治38年時代

所沢街道八店 t12 a 12

12.所沢街道八店

ところざわかいどうはちみせ:この一軒の草屋根の家は、むかしの人にはよく知られていた「八店」という屋号の立場茶屋とでもいえる飯し屋です。砂川方面、あるいは所沢方面へ往来する荷馬車などの馬方が休み、馬を休ませ、かいばをやり、水を飲ませ、あるいは、立川へ用事で来た人達がここで休憩をとり、食事をし、または、一杯やるという店でした。この店は、駅からまっすぐ北にむかい、300メートルばかりの所のY字路角にあり、右側の道が現在の高松町大通り、左側の道がもとフィンカム通りと呼ばれた通りで、現在この場所には二階建てのビルが建てられています。ここまでは駅からわずか300メートルほどの短い距離でありながら、そのあいだには畑が続き。「八店」だけ一軒離れて立てられていたため、夕方「八店」まで行くのにはなかなか勇気がいったと言われるほど、駅の前には人家が少なかったそうです。また、画面左側に用水が描かれていますが、これは芋久保新田用水で、ここから立川駅方面に流れ、駅まじかで向かって左手に折れ、いまの中央線と南武線が分岐するあたりにあった溜池に入っていました。そして、雨が降って水量の多いなどは道にあふれ、道路がぬかるみになって困ったといわれます。さらに、画面中央に今をさかりと咲きほこっているのは、武蔵野の雑木林の中でまっ先に咲くといわれる「こぶし」の花で、こぶしは現在、市の花に指定されています。

 

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立川12景の碑 2020.7.16

立川村十二景の記念碑 立川駅北口憩いの広場 平成3年設置

馬場 吉蔵 について

 生家は、立川駅前の旅人宿「あづまや」。兄福太郎の急死のため父・甚兵衛の跡を継ぐ。明治大学に通う傍ら、小石川に屋敷のあった佐竹永陵画伯入門、南画を学ぶ。さらに浮世絵の世界にまで広く日本画の道を探求しながら、専門画家とならず、郷土作家としてその一生を終える。一時、立川村尋常高等小学校で代用教員を勤める。「あづまや」は、新宿・八王子間に甲武鉄道が開通した明治22年(1889)に吉蔵の父・甚兵衛が開業。その後、屋号を「東屋旅館」から「東雲閣」と変える。終戦間近、駅前広場拡張のため家屋の疎開命令が下り、「あづまや」の歴史を閉じる。 戦後、吉蔵は、立川駅から西へ15分ほどの街道沿いの骨董店「白雲堂美術店」を開店。 著作には画集「立川村十二景」のほかに「葉がくれ日記」がある。「葉がくれ日記」は、絵画・随筆・新聞の切り抜き、父・甚兵衛の人物像などが綴られた30数巻に及ぶものだが、隣家からの延焼でほとんど焼け数冊が、子・馬場啓の元に残っている。

「立川村十二景を描いた父」 馬場 啓 著から
※平成11年10月14日発行 発行所 けやき出版